加藤春鼎の家譜
陶祖 | 景正 藤四郎 (加藤四郎佐衛門) | 鎌倉初期に曹洞宗の永平寺を開いた元禅師について中国に渡り、そこで焼き物を学んだ
藤四郎景正という方がいました。彼が帰国後、良い土を探し求めて日本全国を巡り、瀬戸で焼き物を始めたのが原点とされています。 |
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家祖 | 景元 (景正十七世) | ||
二世 | 景直 | ||
三世 | 景道 | ||
四世 | 景久 | ||
五世 | 景近 | ||
六世 | 景幸 | ||
七世 | 景清 作助 寿斎 | ||
八世 | 景義 作助 春仙 |
初代 加藤春鼎 鼎 | 二代 加藤春鼎 春倫 | |
鼎は初代景正より二十五世。景元から九世春仙の三男として生まれ、
明治40年に分家春鼎と改名。 古陶器を集め、その製法を究め、瀬戸固有の陶技を伝習。 遠州以来の大茶人 益田鈍翁の再度にわたる御来訪を受け御指導を賜り歌を拝受す。 |
昭和36年、二代春鼎襲名。 日本工芸会正会員。 古瀬戸鉢、瀬戸市永年保存に選定される。 第一回愛知芸術選奨励賞。 県教育文化功労賞。 |
初代への思い
名人と謳われた初代
江戸時代に、春袋という瀬戸で名工といわれていた方がいたのですが、初代はその方に心酔していたようで、 そこから名を取り、本名の鼎を合わせて初代春鼎を名乗ったのではないかと思っています。 私が生まれたのが昭和35年で、祖父は昭和36年に亡くなっているので、私自身はまったく祖父のことは覚えていません。 後に聞いたところでは、とにかく名人で、陶芸だけでなく、書も絵もできる人であったそうです。 また、モダンというか、お洒落や新しいものが好きだったようで、そのような話を聞く限り、「新しい感覚」を持っていた人だったように思っています。 ただ、春仙に心酔していたせいか、基本になっているものは春仙の作品に近いものを感じます。図らずも知った自分との共通点。そこに感じた不思議なもの
はっきりしたことは分からないのですが、昭和初期に東京の飯倉辺りで春袋楼美食会という、食と器の会のようなことをやっていたようです。 私もまったく知らなくて、研究者の方が「寛閑觀」という本を持ってきてくださったのです。 それによると、会自体は竹中平蔵という方が企画していて、2000人くらいの会員がフランス料理や日本料理、中華料理などを楽しんでいたようです。 そこで使っていた器をはじめ、会場の襖から掛け軸まですべて祖父が作っていたようです。 それが残っていたらいいのですが残念ながら何も残っていません。 この本も研究の方が神田の古本屋で見つけてきてくれたものなので、本を見て驚いたのですが、自分では新しい物を作っているつもりが、 無意識のうちに祖父とそっくりな物を作っていたんです。 食と器のコラボレートにしても、自分が現在興味を持っていることを初代がやっていたと知り、嬉しいような手のひらで踊っているような、不思議な感じを覚えました。二代への思い
放任主義が許した自由な創作活動
二代 父は、私に対して実に放任主義でした。贅沢な話ですが、学校を出て家に戻った時に工房を一つ与えられたのです。ですから二代には付かず、別に仕事をしていました。その頃は、自由気ままに暮らしていました。でも、私にとっては大切な時期で、そのような時期があったから、 ジャンルに捕われない作品作りができるのだと思っています。二代の工房に入って他のスタッフと一緒に仕事をしていたら、二代の仕事をどこかで真似してしまったかもしれない。 しかし、自由にやらせてもらったおかげで、いろいろなチャレンジができています。
実際のところ、放任主義というのは、ある意味すごく厳しいものでした。自分自身を律し、自分でやらないと何も進まないわけです。
もちろん行き詰まったりした時は、最後のアドバイスをもらうことはありました。ですが、基本的にはできるだけ遠巻きで見ている感じの人でした。
その当時は、アドバイスを受けてもその意味や理由がよく分からなかったことが多かったのですが、襲名し、自分でやっていく中で、ようやくわかるようになってきました。 これこそが、二代から受け継いだ伝統の重みと感じています。